お久しぶりです

ばたばたしているうちに年が明け、気づけば2月が終わり3月に突入してしまった。

しばらく更新できる気がしなかったのでブログを非公開にしておりました(元々頻度も月一レベルなのでそんなに見ている方もいないとは思いますが)。そろそろいいかなと再開することにしましたので、お時間のある方はまたお付き合いいただければと思います。

 

ブログの一時非公開と一緒にツイッターもちょっと覗くのを止めてみたりしたんですが、そのなかで気づいたことがひとつ。

私の情報源は大体ツイッターなんだなということ。

テレビ出演、雑誌掲載、CDやらなんやらといったものをツイッターで知ることが多かった。掌にリアルタイムで流れてくる情報はただでさえ少ない私のキャパを一気に埋めていったけど、そこを1度遮断してみると本当に何も入ってこなかった。個人的にアンテナが向いていなかった時期ということもあるかもしれないけれど、こうもぱったりなくなるものかと驚きだった。おかげで取りこぼしいっぱいある。つらい。Supernovaをテレビでやったってまじですか…そもそもバズリズムいつやってるの…私は何を観たらいいの…。

あ、でも『こだわり美学』(別名『ながのひろしのどきどきお料理実験室』)(※ギャグです)はちゃんと見ました。前回もそうだったけど今回もまたノブさん≒ツッコミ目線で見ていた。最終的にみんな楽しそうだったし嬉しそうだったし焼きいもは美味しそうだったのでだいたいオッケーです。第3弾絶対来るやつでは…??と今からそわそわしておきます。そのときはカレー作って食べながら見よう。

テレ東のさかなクンとの番組はそもそも映らない地域なので…でもレポ(?)見たらすごくかわいかったらしくて切実にテレ東チャンネルが欲しい。そしたらよじごじも見られる。欲を言えば魔レスも見たい。

 

更新してなかった間、『TOP HAT』観に行って燕尾服が似合いすぎる坂本昌行さんに恋をしたり化粧バッチリまつげバシバシの多部未華子さんにうっかり惚れたりDVD鑑賞会に参加したり舞台を見に行ってみたり引っ越ししてみたりチケット抽選に申し込んで外れまくって落胆したりしていました。鑑賞会ってその時が初めてだったんだけど私はたぶん向かない人種かもと思ったり…。人見知りだし始まると画面をひたすらガン見してしまってしゃべらなくなる。地蔵か。個人的にはめちゃめちゃ楽しかったんだけど感情の表現と共有が下手くそだよ…。こんな地蔵を参加させてもらってありがたかったです…。

 

今後の予定(誰も興味ない)としては、ありがたいことに『クイーン・エリザベス~』が1枚当たったので、有給もぎ取ってぼっちで参加します。まだ一般も申し込むつもりだし他の舞台も観に行く予定なのでここからしばらく金欠待ったなし。『羅生門』も観たかったけど予定が立たずに申し込みの時点で断念。ちなみに来月の『空ばかり見ていた』は行けるので楽しみです。

金欠とか言っておいてあれですけど鑑賞会に参加してからというもの割りと切実に歌って踊る6人が観たいのでコンサートのチケットが欲しい。ライブDVDも買い揃えたい。

金木犀が香る頃

自分の胸の内をなんと言葉にして良いのか分からないまま、今日という日がもうすぐ終わってしまいます。きっとたくさんの人からお祝いをされたことでしょう。そのたびに目尻にやわらかくしわを寄せた、あの笑顔を見せているのでしょうか。もしかしたら照れたように唇を引き結んだりするのでしょうか。

 

素敵な絵も気の利いた言葉も生み出せやしない私は、こういうときにどうすればいいか分かりません。いつも端の方でじっと他の人たちの様子を伺うばかりです。つぎはぎだらけでまだらの気持ちを見せるのもこわくて恥ずかしくて、結局お決まりの言葉を並べて終わってしまいます。それでもやはり季節がめぐり、金木犀が香り始めると「そろそろだなぁ」と考えずはいられません。私自身とは何の関係もない、だけどたぶんこれから先もまだずっと覚えているであろう1日。あなたを思う多くの人が健康としあわせを願いながら朝を迎え、昼を過ごし、夜に眠るのです。

「ありがとう」も「おめでとう」も、いつの日か直接手渡せたらと思うこともありますが、きっとそんな日は来ないでしょう。だからこうして片隅で、たどたどしい言葉を綴っています。

 

これからもどうぞ、あなたとあなたのまわりに幸福の粒が満ちた日々が続きますように。

長野博さん、46歳のお誕生日おめでとうございます。

お金を考える平成最後の夏

きっかけは友人との会話だった。仕事の話からお金や保険の話題になり、「知り合った頃はこんな話全然しなかったのにねぇ」と時間の流れを感じるなどした。その帰り道、自分はお金についての知識がほとんどないなと考えたのである。

“お金についての知識”と言っても、別にプラスアルファで大儲けをするためのものではない。そこに至るには道が遠すぎる。私が持つべきは基礎の基礎、“自分が支払うお金と得られるお金についての知識”と“どう使ってどう貯めていくかの知識”だろう。

 

生きている限りお金は必要だ。そして意識するしないに関わらず、お金は絶えず自分の周りで動いている。生活に必要な物品を購入する現金であったり、差し引かれる税金の類、使用したクレジットカードの請求、振り込まれる給与と変動する口座残高。

もちろん湯水のごとくあるだけのお金を使っているわけではないし、丼勘定気味だけど毎月の支出を計算したり給与明細だって見てはいる。だけどもう少し具体的に、

  • 今は何にどれくらい使っていて、
  • 今後のためにはいくらが必要で、
  • 金融機関にはどういった仕組みがあって、
  • 自分は何を利用することが可能なのか?

ということを考えたいなと思った。恥ずかしながらこれまでろくにこういうことに頭を使ってこなかったし勉強しようとも思わなかったんですが…友人との会話もあり、その前にひとつ年を重ねたこともあり、さすがにそろそろするべきかなとなりました。自分のことは自分で面倒見るしかないなと思っているので、そうなると一番考えないといけないのってお金のことじゃないのかしらと心配になったというのもある。

貯金は雀の涙だし、正直今の会社では大幅な昇給やびっくりするほどのボーナスはあまり期待できない。かといってお給料がいいところへの転職を明日にでも出来るかと言われても出来ない。すぐには収入の増額が見込めないのならば

  1. 家計状況の把握
  2. 支出の見直し
  3. 預金の活用方法

で少しずつでもどうにかしていくしかないな、という状態です。

 

まずは現状把握だ!ということで、お財布に入っているカード類や支払明細・給与明細や通帳を確認することにした。改めてみるとポイントカードが多いなと気づく。しかも中には有効期限がとっくに切れていたりするものもあったり。明らかに不要なものは破棄したほうがいいですね(当たり前)。レシートもこまめに出してチェックして…というのはたぶん皆普通にやってるんだろう。こういうところよくないぞ私。 

あとすっかり存在を忘れていたクレカがあった。年会費かかってるのに。クレカ自体をほっとんど使わないというのもあるんだけど(チケット代金くらい…?)、自分の手持ちすらきちんと把握出来てなくて引いた。クレジットカードについてちゃんと調べて上手く利用していきたいな。

銀行の口座も、必要に迫られて開設したものの今はほとんど使っていないものとかあった。これを機にこちらも整理をつけたいなと思う。今まで給与口座とは別に貯金用(にした)口座に毎月いくらかお金を入れていた。でも「普通預金よりは定期預金にでもしておいたほうがいい」という話を聞いたりした。無知なのでまず「定期預金とは???」というところから調べ始めました。あれこれ調べてみると「ほほぉ~そうなのか~」みたいな(知っている人からすれば全くたいしたことではないであろう)発見だらけだった。

 

先日、本屋さんで今まであまり足を踏み入れたことのない金融系コーナーに行ったんですが、まあこうもお金にまつわる本がたくさんあるものかと驚いてしまった。“初心者におすすめの投資”だとか、“勝手にお金が増える方法”だとか本当に多様。それだけ関心が持たれている証拠なのだろう。そんな中で棚を眺めていたら、『今さら聞けないお金の超基本』なるタイトルが目に入ったので買ってみた。思い立ったが何とやらってやつです。超基本から勉強しよう。

まだまだ知らないことはたくさんあるので、勉強して情報を正しく取捨選択する能力を身につけないといけないなと思う。働けるうちは働きたいし、でもけちけちせずに楽しむところは思いっきり楽しみたいし、そのための知識はあっても無駄にはならないと信じて頑張ります。自分で知ろうとしないと分からないことが多いよなぁ、というのが今回のまとめ。そんな感じで過ごした平成最後の夏でした。

ある曲についての覚え書き

ここ数年、夏になると聴きたくなる曲がある。

別に聴こうと決めているわけではないのだけど、梅雨が終わって気温が上がって蝉が鳴き出すような時期になると何故だか聴きたくなる。プレイリストからほとんど無意識のうちに探していたりするときもあるから不思議だ。

 

私がこの曲を知ったのは高校生の頃だったと思う。音楽を積極的に聴くようになったのがこの頃で(と言っても幅も狭いし浅いし全く詳しくはない)、友人から薦められたうちのひとつだったような気がする。

四季を基調として作られた連作の中の1曲だが、この曲の中には夏という単語はどこにもない。歌詞を見てもタイトルの単語くらいしか季節が連想されるものは出てこない。それでも聴くたびに「あぁ夏だな」といつも思う。

キーボードのきらきらとした音は照りつける真夏の日差しの欠片のようで、アウトロはうわんうわんこだまする蝉時雨みたいに余韻を残しながら消えていく。目が痛くなりそうな程の青と白のコントラストの下、時間をもて余している夏休み。日差しの強さに頭がぼぅっとして、アスファルトからぐらぐらと立ち上る熱い空気に包まれて、周りの音が全て蝉の鳴き声にかき消されてしまったような中にいるいつかの自分。そんなものを想像する曲だ。

 

この曲を歌っていた人はもういない。いなくなったのは冬の日だった。夏とは正反対の季節。静かで、重く暗い色をした雲がかかる空と肌を刺す冷たい空気で何もかもが縮こまってしまったように感じる季節。

知らせを知ったとき、確かひっそりとした学校の図書館にいて、分厚い冬用制服の上にカーディガンを着ていた気がする。もしかしたら全く違う場所だったかもしれないけれど、その人を思い出すときに浮かぶのは何故かこのイメージだった。

聴き始めたばかりだったのにな。

もっと早く知っていたら良かったな。

もうこの人の新しい声は聴けないんだな。

そう思いながら冬を越して、春を迎えて、雨の季節を過ぎて夏が姿を見せたときにまたこの曲を聴いた。やっぱり夏だと感じた。その人の不在を強く感じた。暑さに強くはなさそうな顔をした彼は夏生まれだった。

 

当然ながら曲自体はいつでも聴ける。いつ聴いても好きだなぁと思う。だけど一番似合うのはきっと夏なのではないかと思う。

夏をテーマにした曲によくある、弾けるような明るさはない。一夏の恋とかそういう曲でもない。歌詞に特別ドラマチックな展開もない。目の前の光景を淡々と述べるような言葉選びで、感傷的にさせる表現を連ねるわけでもないのに心の隅がそわそわする。ずっと昔、無防備に肌を焼いていた頃の自分がふいに顔を出すような気がする。暑さで頭がやられてしまったときに見えた、懐かしい幻を歌ったような曲だと思う。いつかの私や、いつかの誰かの夏の日を思い出させる歌だ。

 

あれから何年か経って、あの人がいなくなってからもそのバンドは活動している。多少環境は変われど私の生活もとりあえず続いている。あの頃と変わらず暑いのは得意ではないし、これと言って具体的な理由も思い付かないけれど夏は割と好きだ。

きっとこれからも気まぐれに口ずさんでは何かや誰かを思い出して、ちょっとだけ感傷に浸って、でも明日には何にもなかったように生活を続けていくのだろうな。雨が止んだら外に出て、目が眩むほどの日差しと蝉が大合唱する季節を歩いていきたいなと思う。

今年も夏が来ましたね。

おもいだした、ここはトーキョー

もう6月も終わりですって。(滑り込み更新)

何てことだ。緩くゆるく月1程度は何か書けたらなぁと思っていたのにもう終わりだと?2018年が半分終わったとか本当なの?光陰矢の如しってこういうこと?

今月は休日に特に遠出をすることもなくうだうだ過ごす日が多かった。梅雨に入ったし、天気が悪いと出掛けるのも億劫になってしまうし(出不精)、蒸し暑くてたまらないから涼しくて快適なところにいたいよねという人間です。THE・怠惰。

 

とか言いながらも灯籠流しが見てみたくて、月初めに北陸へ旅行したことを思い出した。
3月頭くらいから考えていたのだけど、友達が少なすぎる上に中途半端な人見知り故に気軽に誘える人もいない(書いてて悲しくなってくるな…)から、最初から一人で行くつもりだった。というより、基本的に「人を遊びに誘う」という行為がひどく苦手だからあまり考えていなかった。結果としては当日考えていた一応の予定もがんがん変えていってしまったので、むしろ振り回さなくてよかったなと思ったりもした。 

しかしこちらが日本海側で気ままに甘味を食べ歩いてへらへらしているうちに、友人Aは恋人と婚約指輪(仮)を見に出掛け、友人Bはお相手の御両親と顔合わせを済ませたようだ。Twitterで知った。
…泣いてない。大丈夫。楽しかったもん。美味しいもの食べたもん。金箔付きの烏骨鶏の卵のソフトクリーム美味しかったもん。

 

北陸は今回が初めてだったのだが、舞台などを観るためにときどき東京へ行く。最近だとナイロン100℃『百年の秘密』を観るために行った。お勧めしてくださった方がいてよかった、観て良かったなと時間が経っても思う作品だった。

夕方の開演だったのでお昼過ぎくらいから下北沢にいてご飯を食べて、時間まで路地やお店をうろうろしてみた。

自転車を押した主婦らしき女性や犬の散歩中のおじさん、観光に来ている外国人グループ、高校生の集団、工事中の迂回路の案内が張られた壁の前で待ち合わせをしていたカップル。そんな中でスマホを片手にきょろきょろしながら歩いていたので、私が地元の人間でないことは誰が見ても明らかだった。

終演後、外に出るとそこかしこの飲み屋さんの明かりがついていて、仕事帰りなのかスーツ姿の人たちが寛いだ表情でお酒を飲んでいた。昼間とはまた違った通りの風景を横目に駅に向かい、ホテルに戻って眠りに就いた。

翌日はチェックアウトぎりぎりまでホテルで過ごし、Googleマップに印をつけていたお店を思い出したのでそこへ向かう。そのあとに調べていて気になった喫茶店の一角から、ぼんやり道行く人を眺めて次の行き先を考えていた。

汗をかいたグラスの中に残されたレモンと氷。食器が触れ合う音、女の人の笑い声。仕事の話、隣の席から聞こえるペンの音。さりげないとは言い難いボリューム流れる弦楽のBGMは、途切れてはすぐにまた別の曲へと続いていく。

店内に漂う煙草の臭いが服に付くかもしれないと気にしながらオムライスを口に運んでいる途中で、「そうだ、ここは東京だ」とふっと思った。

 

以前は東京に一人で出掛ける機会なんてなかった。地方で生まれ育った私にとっては遠い遠いほとんど他人みたいな親戚がいるくらいで、馴染みがない都市だった。『東京』でも『とうきょう』でもなく、『トーキョー』という表記がしっくり来るような場所だった。どことなく角張っていて、無機質で襟を正したよそよそしいイメージを抱いていた。

だけど新たな世界に足を突っ込んだら違う姿が見えてきた。「違う姿」というより、私が勝手に抱いていた近寄りがたさが和らいだとでも言えばいいのか。

トーキョーは人が多くて、娯楽もたくさんあって、便利だ。地方で体験できないことがあちこちに転がっている。でも普通の街だった。決して勝手に私が抱いていたような無機質さだけで成り立っているところではなかった。私と同じようにどこかの会社に勤める人がいて、晩御飯どうしようかなと考える人もいて、休みの日には友達と出掛けようと計画する人がいて、情報も人も手段も地方より遥かに密集しているだけだった。考えてみれば当たり前のことだ。でも私はそのことにあまり意識がいっていなかった。

そんな街で、時間をどう過ごすかを決めかねて喫茶店でぼーっと道行く人を眺めてオムライスを食べている自分。その気になればいつでも来ることができるのだと知った街で、昨日新幹線で来たくせに、まるで暇潰しでちょっと散歩に出てきただけであるかのように何も決めずにふらふらしている自分。それがなんだか不思議だった。

訪れる回数が増えて、ぼんやりながら知っている場所も増えて、ある種の慣れが出てきたのだろうか。喫茶店の片隅でなんとなく『トーキョー』が『東京』に近づいたように感じたのだった。 誰かの夢も現実も幻想も失望も娯楽も不安も混ざりあってあちこちに転がっている街は、明日もきっと明るく光っていることだろう。

 

舞台のチケットがとれたので11月にまた東京に行く。でもそれまでにもたぶん行くだろうなと思っている。行ってみたいお店もあるし、久しぶりに会いたいなと思う人もいるし、気になっているものもいくつかある。美味しそうなかき氷も見つけてしまったので夏の間に行きたいなと思う。一緒にはしごしてくださる方大募集してます。

心を揺らす君は、

ファンクラブとは、その名の通り“ファンが入会する組織”だ。個人あるいはグループに対して応援する気持ちを持つ人々が、情報登録と必要な費用を支払って入会するものである。スポーツチーム、俳優、女優、歌手にタレント、アイドルなどなどなど世の中には数多のファンクラブが存在している。加入している会員限定の特典があったりイベントなどの先行応募が出来たりすることもあるので、当然ながら参加できるチャンスが増える。ファンにとっては大変嬉しいシステムだと思う。

 

なぜこんな話をしたかというと、先日ついに個人情報と一定の金額をジャニーズファミリークラブに渡し、引き換えにアイドルの活動状況やチケットの先行情報を届けてもらう1年契約を交わしたからだ。人生で初めてのファンクラブだ。

仕事終わりに最寄の郵便局で挙動不審になりながらも振込を済ませ、振込票に印字された『V6』の文字をまじまじと見ていた。直後にメールで届いた会員番号を眺め、ウェブにアクセスし、ログインページを開いて動画を見た。しばらく経ってから青い封筒が来て、ずっと変わっていないという噂のキーホルダーをおっかなびっくり触ってみた。若干ぺたぺたしていた。これはどこにどう保管するのが正解なんだろうなんて考えて、とりあえず封筒の中にそっとしまった。

 

これまでにも入ろうと思ったタイミングは何度かあったのだ。「入りなよ~」と言われたこともあったし、自分でもいい加減入れよと思ってはいた。

思っては、いた。

だけどその度に二の足を踏んでいた。

さんざん気味の悪いブログを更新していたくせに、私はどこかで自分の『好き』に自信が持てなかった。より詳しく述べるなら、『この先も絶対的に好きでいられる』という自信がなかったのだと思う。熱しやすく冷めやすい、言うならば飽きっぽい性格であることを自覚したのはここ最近だ。

だからずっとどこかで考えていた。

『いつか飽きてしまうのだろうか』

そのときに、もしかしたらそれまでが無駄だったと感じてしまうかもしれない自分が怖かった。大馬鹿である。だが私はこういう人間だった。いずれ訪れるであろう未来を怖がってばかりで、今にきちんと目を向けられないでいる。今もいつか過去になるし、かつての未来が私の不安を裏切って今になっているのにね。

 

ゴールデンウィークも終わり、気付けば5月も10日程過ぎている。2018年がまもなく半分近く終わってしまうという恐ろしい事実に気が付く。

V6を好きになって、ブログを始めて、ここまであっちこっちでいろんなことが起きた。いろんなことだ。

そのたびに私は言葉をなくして、落ち込んで、切なくなって、寂しくなって、もやもやした。同じように口をつぐんで黙る人、涙を溢す人、怒る人、一生懸命受け止めようと言葉にする人も、そっと離れていく人もいた。

こう書くと暗いことばっかりだったのかと思われるかもしれないが、もちろんそうではない。新曲だとか、ライブレポだとか、次のお仕事だとか、映像解禁だとかで盛り上がるTwitterのタイムラインを眺めて思わずにっこりしてしまうこともたくさんあった。ウェブが更新される日には大体職場でそわそわしている。ときどき繰り出される嬉しいお知らせに喜びのあまり変な声が出たこともある。相変わらずブログにはいろんな人からいろんな人への「好き!!!」が溢れている。眩しいな、と思う。

 

だけど不変と永遠はどこにもないと思い知らされた。

いつか変わるし、いつか終わる。時間も人も止まってくれはしない。私もあなたも彼らも、たぶん見えるところでも見えないところでも静かに少しずつ変わり続けていく。それが自然なのだろう。

そして同時に、代わるものなどきっとありはしないんだろうとも改めて思わされた。 

以前にも同じようなことをぼんやりぼんやり考えていたことがある。よく見たら今年最初のブログだった。

ファンにとってはそのアイドルが唯一無二の存在だから、どうしようもなくやりきれない気持ちにもなるんだろうなと思う。その人が愛したアイドルは一人しかいないから。似ている人はいても、同じではないから。

完全なる代わりはいない。

割りと真面目にそう思っている。

私がブログのタイトルにつけた“きらきら”が示すものは彼であり彼らだ。

私にとって代わりのいないきらめきだ。

眩しくて目がくらんで、でもずっと見ていたくて、これがいつか消えてしまう瞬間を思うととても怖くなった。少しずつ色を変えて、形を変えて、ある日ぱちんと弾けて消えてしまうのかと思うと恐ろしくなった。

それこそ炭酸の泡のように、呆気なく消えてしまうことだってあるのだ。

自分で「不変と永遠はない」なんて言っておきながら永遠を願わずにはいられない。だって終わりを常に意識しながら生活するのはなかなかにしんどいことだもの。そこではっとした。

不変がないということは、噛み合わなくなってしまう瞬間だってゼロではないということだと思う。そのときにどうするかなんて決めておけるわけがない。噛み合わなくなる原因もタイミングも、その瞬間まで分からないのだから。

時間をかけて戻るのを待つのか、噛み合う別のものを探すのか。どちらを選ぶのも私の自由だ。義務じゃない。

最初に入るのを躊躇っていた理由として挙げた『何があっても絶対好きでいられる自信がない』なんて、そんなのみんな同じじゃないか。何があるかなんて分からないんだから。

私は今、彼らが好きだ。気持ちがぐちゃぐちゃになった日もあるけれどまだ好きだ。

代わるものがなくて、変わらないものも終わらないものもないのなら、少しでも長く近くで見ていられる場所にいる方がいい。そうしたい。

そう思って、ファンクラブに入ることにした。やたら長いしやたら重めの理由だった。

 

最近になって気持ちの整理が少しずつ出来てきた、気がする。ぐずな私は何をするにも時間がかかってしょうがない。そしてこれを書いている間、『GOLD』がずっと頭を巡っていた。

自己満足に過ぎなくても、こうして言葉に出来てよかったとちょっと安堵している私がいる。あとで読み返したら「ちょっと何言ってるか分からないですね」ってなるかもしれないけど。

そうしているうちに昨日またお知らせが来たので、時間はまたかかるだろうけどそれについてもぽつぽつ言葉にできたらなぁと思った週末でした。

皆々様、どうか健やかにお過ごしくださいませ。

手紙と海と永遠と

さんざん悩んで、書いた言葉はたった一言でした。

 

『よるのいろ』という名前に惹かれた深い藍色のインクを使い、とっておきの万年筆で丁寧に文字を書きました。最初で最後。そう決めて白い便箋に残せたのはたった一言でした。

 

なにを書こうか、何を書いても良いものか、便箋はこれだけあれば足りるのか。そんなことばかりを考えていたのに瞼の裏で言葉は詰まり、ペンは動かず、時計の針は何周も何周もしてしまいました。

 

らせんを描いて木の葉が落ち始めた頃に、ようやく書いた一言は頼りなく白い地面に浮かんでいました。そのひょろひょろした後ろには、本当は無数の透明な生き物が潜んでいるのです。丁寧に折り畳んだ便箋を白い封筒に入れて、私は海へと向かいました。

 

大きな水溜まりを目の前にして、手の中の言葉を書き終えたのと同じくらい長い間立ち尽くしていました。ここへ来て怖くなったのです。本当にこれでいいのかと。あの言葉でよかったのかと。今ならまだ書き直すこともできる、いっそこんなこと止めてしまおうか。だけど結局私はそれをしませんでした。透明な生き物は封筒に閉じ込められたままひっそりとしています。

 

好きだった横顔を思い出しながら手をそっと離せば、白い四角はあっけなくさらわれてどんどん遠ざかっていきます。空っぽになった指先にやわらかく風が絡まります。小さくなっていくそれに、いつか遠くから見ていた後ろ姿を思い出しました。じっと見つめているうちに、四角は波の合間に静かに静かに消えていきました。後に残るのは、私とこの大きな水溜まりだけです。

 

きっと塩辛い水に濡れてインクは滲み、紙はふやけ、あっという間に散り散りになり、手紙であったことなど分からなくなってしまう。もうどこへいったかも分からない。そもそもあれは“手紙”といえるものだったのでしょうか。さまざまなことが頭を過ります。私は暫く動くことができませんでした。

 

なんと無駄なことをしているのだろう。

 

人が私の行動を知ったら、きっと愚かだと笑うのでしょう。自分でも少しはそう思います。しかし、これでよかったのだとも思うのです。誰の目にも触れることがなくても、せめて私だけは、今だけは、あの美しく透明な生き物を覚えておきたいと思います。いつか思い出して「馬鹿なことをしていたな」と考えたとしても、そんなことがあったことなど忘れてしまっても。

ついぞ口には出せなかった言葉、届けられなかった気持ち、大切に大切に抱き締めていたかったもの。水溜まりの中で散り散りになった私の手紙は、同じような誰かの手紙の欠片と一緒にどこかでかすかにゆらゆら揺れていることでしょう。もしかしたら永遠に思えるほどの時を越えて、水溜まりに潜った誰かの目にとまるかもしれません。そのときまで、おやすみ。