手紙と海と永遠と

さんざん悩んで、書いた言葉はたった一言でした。

 

『よるのいろ』という名前に惹かれた深い藍色のインクを使い、とっておきの万年筆で丁寧に文字を書きました。最初で最後。そう決めて白い便箋に残せたのはたった一言でした。

 

なにを書こうか、何を書いても良いものか、便箋はこれだけあれば足りるのか。そんなことばかりを考えていたのに瞼の裏で言葉は詰まり、ペンは動かず、時計の針は何周も何周もしてしまいました。

 

らせんを描いて木の葉が落ち始めた頃に、ようやく書いた一言は頼りなく白い地面に浮かんでいました。そのひょろひょろした後ろには、本当は無数の透明な生き物が潜んでいるのです。丁寧に折り畳んだ便箋を白い封筒に入れて、私は海へと向かいました。

 

大きな水溜まりを目の前にして、手の中の言葉を書き終えたのと同じくらい長い間立ち尽くしていました。ここへ来て怖くなったのです。本当にこれでいいのかと。あの言葉でよかったのかと。今ならまだ書き直すこともできる、いっそこんなこと止めてしまおうか。だけど結局私はそれをしませんでした。透明な生き物は封筒に閉じ込められたままひっそりとしています。

 

好きだった横顔を思い出しながら手をそっと離せば、白い四角はあっけなくさらわれてどんどん遠ざかっていきます。空っぽになった指先にやわらかく風が絡まります。小さくなっていくそれに、いつか遠くから見ていた後ろ姿を思い出しました。じっと見つめているうちに、四角は波の合間に静かに静かに消えていきました。後に残るのは、私とこの大きな水溜まりだけです。

 

きっと塩辛い水に濡れてインクは滲み、紙はふやけ、あっという間に散り散りになり、手紙であったことなど分からなくなってしまう。もうどこへいったかも分からない。そもそもあれは“手紙”といえるものだったのでしょうか。さまざまなことが頭を過ります。私は暫く動くことができませんでした。

 

なんと無駄なことをしているのだろう。

 

人が私の行動を知ったら、きっと愚かだと笑うのでしょう。自分でも少しはそう思います。しかし、これでよかったのだとも思うのです。誰の目にも触れることがなくても、せめて私だけは、今だけは、あの美しく透明な生き物を覚えておきたいと思います。いつか思い出して「馬鹿なことをしていたな」と考えたとしても、そんなことがあったことなど忘れてしまっても。

ついぞ口には出せなかった言葉、届けられなかった気持ち、大切に大切に抱き締めていたかったもの。水溜まりの中で散り散りになった私の手紙は、同じような誰かの手紙の欠片と一緒にどこかでかすかにゆらゆら揺れていることでしょう。もしかしたら永遠に思えるほどの時を越えて、水溜まりに潜った誰かの目にとまるかもしれません。そのときまで、おやすみ。